2011年12月27日

論理学 発展問題B



B:統一論理学の立場からマルクス主義論理学の問題点を指摘し、統一思想の主張が正しいことを証明せよ。
(注)マルクス主義論理学(P625〜627、P654〜655)、統一論理学(P630〜649)を参考にせよ。









【TOALAゼミの回答】 10点


 マルクスは、形式論理学を認めるわけにはいかなかった。

 その理由は以下のとおりである。

@純粋に思考の法則を扱っているという点において上部構造に属するものであり、唯物史観の立場から受け入れることはできなかった。
A事物は対立物の統一と闘争の法則によって発展すべきであり、形式論理学の同一律・矛盾律という考え方は受容できない。


 そのため、思考の発展を述べたヘーゲル論理学を土台として、マルクス主義論理学を唱えた。

 ヘーゲル論理学は神の思考から出発して自然・国家といった現実世界に関する思考にまで至っており、思考と客観世界の関係について考えるという点でマルクスにとって都合がよかったのである。

 ヘーゲル論理学では、思考が主であり思考の展開が従たる現実世界であるとしているが、その主従を逆にしたものを、そのままマルクス主義論理学としている。主従を逆転させたのは、マルクス主義では思考・意識は物質によって生み出されたものだからである。これが唯物弁証法である。

 そのため、マルクス主義論理学は、ヘーゲル論理学が持っている問題点をそのまま受け継いでしまっている。それらの問題点については発展問題Aで詳しく述べているので、ここでは述べない。

 しかし、ヘーゲル論理学の問題点を別としても、マルクス主義論理学には大きな問題がある。同一律・矛盾律を排除したことによって、前後に矛盾のない、終始一貫した正確な思考をすることができないという事態に陥ったのである。

 1950年、同じような混乱状態にあった言語学の論争に終止符を打つために、スターリンが「マルクス主義と言語学の諸問題」という論文を発表し、「言語は上部構造ではなく、階級的なものでもない」と言明した。これを受け、論理学においても「形式論理学の思考の形式と法則は上部構造ではなく、階級性をもたない」という結論が下された。このことによって、思考における同一律・矛盾律は認められるようになったのである。

 しかし、それによって今度は「思考の発展と客観世界の発展が別の法則に従っている」ことになり、「思考は客観世界の反映である」という唯物弁証法の本来の主張との矛盾を抱えることになった。

 この矛盾は、悟性的段階の思考(認識)は自己同一的であり、理性的段階における思考は発展的である、という統一論理学の主張によりすっきりと解決することができる。
(ただし、マルクス主義論理学が間違っているからといって、そのことがすぐに統一論理学の正しさを証明するわけではない)







【八ツ橋ゼミの回答】 14点


 マルクス主義論理学は、唯物弁証法に基づいたものである。唯物弁証法は、客観世界の発展法則を扱った理論であって、その発展形式は正反合、すなわち自己を否定することによって発展するというものである。したがって、唯物弁証法に基づくマルクス主義論理学においても、思考の発展は正反合作用によって成される。

 まず、マルクス主義論理学では、形式論理学を否定する。これは、唯物史観の立場から、先に存在した上部構造を否定しなければ世の中は発展しないという理論に基づく。また、思考の発展法則は客観世界の発展法則である「矛盾の法則」の反映であるとする反映論の立場からも、形式論理学の同一律・矛盾律を否定せざるを得なかった。しかし、形式論理学の否定は、前後の一致した議論をなす事を不可能にした。なぜならば、物事の発展には、「AはAであると同時にAは非A」でなければならず、これはある概念の一致性や不変性を否定するものだからである。結局マルクス主義論理学は形式論理学を認める立場に立たざるを得なかった。しかしこのことは結局、思考における発展法則と客観世界における発展法則との間に矛盾を生じさせてしまった。

 マルクス主義論理学が上記の矛盾をはらんだ原因は、マルクスが事物は絶えず変化するものと捉えた点と、その変化は矛盾の法則によって成されるとしたところにあった。そして、彼がそう考えた理由は、神の愛を認めることができなかったために、心情を中心として保証される自己同一性を認められなかったことと、堕落性に基づく自身の反発心を正当化するためであった。

 自己同一性は、心情を中心として主体と対象が授受作用をして調和を成すときに保証される。したがって、心情というものを理解できないと認めることができない。また、マルクスは、自分自身の神や社会に対する反発心を押さえることができなかったのである。
以上のようにマルクス主義論理学のはらんだ矛盾という点から考えてみると、論理学を考えるにおいては、発展性と自己同一性の両面から考える必要性があるということが見えてくる。つまり、マルクス主義の論理の破綻の原因は、この発展性と自己同一性の両側面を説明できなかったことにあり、逆にこの二つの側面を包含するような論理こそが真理だと言えるのである。

 したがって、事物を「自己同一性と発展性の統一」として把握する統一思想の主張は、正しいものといえる。







【和源ゼミの回答】 6点


 カール・マルクスは多くの哲学者から影響を受けているが、彼の弁証法理論の多くはヘーゲルから借りたものだ。マルクス論理学の基本的な立場は、ヘーゲルの観念が物に置き換えられたと言えば分かりやすいかもしれない。ヘーゲルは人間の思考(意志)の出発点を神(ロゴス)ととらえるが、マルクスは人間の思考(意志)を規定(制約)するものは神ではなく人間の社会的存在、つまり現実であり、労働であるととらえる。よって宗教や道徳の基礎となる地盤も経済であるとする。また、マルクスの自然の発展過程における法則もヘーゲルと似通っており、自己の中から必ず対立物を生み出し、自己と対立物との闘争によって思考が起こり、より高い総合的立場へ向かって発展するといったものだ。これは正反合であり、矛盾性を肯定している。

 しかし、奇しくもマルクスの同志エンゲルスが「この思想の前には、究極的なものも存在しない。この哲学は一切のものの消滅性を立証する」といったように、矛盾性を内包するものは、科学的に見ても生成すること自体不可能である。マルクスの自然の発展過程における法則は、自然界が自然法則によって必然的な変化発展を重ねることを、社会構造にも適応したものである。だが、自然は矛盾から生成したり変化したりしないというのに、どうして人間の社会が、矛盾性によって変化発展することができるというのだろう。よってマルクスの考えた思考の出発点は間違いであると言えるのである。

 では、統一思想における自然の発展過程における法則はどのようなものか。その中核を担うのは授受法である。人間の内的性相と内的形状の間に行われる円滑で調和のある授受作用によって思考が生まれるとするため、矛盾性は存在しない。また授受作用が成り立つためには共通の目的または原点が無ければならないが、それが神(ロゴス)である。よって授受作用による思考の出発点も神である。ただし、この論の中に神や法則などがでてくるからといって、人間の自由を束縛するものではないとする。人間は自由な思考を求めて法則や形式を離れようとした歴史があるが、思考には必ず法則や形式があるものである。思考に自由はあるが、それは「思考の選択の自由」である。よって、矛盾ではなく授受によって内的形状の自由性をとく統一思想の形式論理学は、マルクス論理学の問題点を克服し、人間の思考の出発点を解いた価値ある主張と考えるべきである。




【審査員のコメント】
※本誌「MOONISM」に掲載した【TOALAゼミ】、【八ツ橋ゼミ】に対するコメント

 マルクス主義論理学の問題点は、形式論理学を否定していることにある。形式論理学の同一律・矛盾律を排除したことにより、前後に矛盾のない議論をすることができなくなっていることが説明されている必要がある。

 また、回答の中に不必要な文章や不適切な言葉が時折見られたが、文章をさらに細かく校正すればより良い回答になるだろう。






posted by W-CARP JAPAN(ワールドカープ・ジャパン/全国大学連合原理研究会) at 16:08| 統一思想AL 第7回 論理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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